広沢中学校50年の歩み
50周年記念誌より

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挨拶・祝辞 学校の沿革 50周年記念座談会 寄稿 歴代校長・PTA会長名 思い出の写真

座談会「中学校時代の思い出を語る」

出席者:広沢中学校創立50周年
記念事業実行委員長 加藤 昭二
昭和23年度卒業生 山崎 敏夫
昭和24年度卒業生 荻野 京子
昭和25年度卒業生 丹羽 ミネ
昭和25年度卒業生 岡部 克己
昭和28年度卒業生 中原守之助
元教諭(昭和23年度〜41年度) 徳田 基
新制中学校になって
荻野: 私たちが入学したら、「今日から新制中学校になりました。今までは男女が別の組でしたが、今度から男女が一緒に勉強します」と言われてびっくりしました。席の前も後ろも男の子がいて、「ヤダー男の人がいる。」なんてねぇ。それに通知票の優良可がABCになって、「ヤダー通知票が英語になっちゃった。」なんてね。男女平等で男女共学じゃあ、男のする事を女もするんかねえ、なんて言ってね。体育の時間も今まで女子は跳び箱なんかしなかったのに、今度は女子も跳ぶんだって言うんですよ。私は負けず嫌いだからとんだら跳べちゃって(笑)。源吾先生に、この子の婿さんになる人は思いやられるって言われましたよ。
徳田: 京子さんの年から男女共学で、敏夫さんなんかの時は男組、女組だったね。
山崎: 私は6年生の時が終戦で、高等科からそのまま新制中学になったので、まだ義務制じゃなかったから中学に残ったのは3分の2くらいだったでしょう。120人くらいいたかなあ。
荻野: 昔は教科書もひどいわら半紙でした。それでも買えたのはよい方でしたよ。御弁当だって持っていけない時代ですもの大変でしたよ。
中原: かばんはあったんですか。
荻野: かばんは帯芯で作ってもらいました。木口っていう持つ所が木で、布の袋の手提げ袋を使った子や風呂敷包みで行った子が多かったです。だから私は上級生の男の子に生意気だって言われましたよ。
丹羽: 農家は特にお金がなかったから、何から何まで家で作ったものです。蚕から生糸をとって、織って、姉がセーラー服まで縫ってくれたんです。
岡部: あの頃の写真を見ると大体下駄だけど、はだしもいるね。
中原: 靴も配給さ。サイズが合わなくったって他に無いんだから。それで真綿の中に唐辛子を入れて暖めたんだ。

校舎・校庭の様子

中原: 現在のグラウンドは田んぼだった。上の道から周藤さんの家までは勾配があったので、小泉のキャンプからアメリカの兵隊さんがブルドーザーを持ってきて整地してくれました。ブルドーザーが埋まっちゃって大騒ぎしたもんです。
徳田: なにしろ運動会の綱引きに使う綱をかけて引いたら切れちゃったんだから。
中原: ブルドーザーが珍しくて乗せてもらったよ。あの時の兵隊さんの写真は渡り廊下にずっと飾ってあったね。
荻野: 学校の田んぼで中学時代、田植えをしたのを覚えていますよ。
山崎: 校舎は小学校を間借りで。工作室にいたんだけど、冬なんか風が吹くと屋根がふわふわ浮いちゃったよ。
丹羽: 裏校舎の裏に2クラスありましたよ。いわゆる「はなれ」がね。
徳田: そこは2年生がいて、3年生になると工作室だったんだ。本校舎との間には小学校との仕切りがあって。教室がないから、1・2年の時は3学級でも3年になると2学級にされて、1学級75人もいたね。
山崎: 庭も小学校と併用だった。今の庭は昭和29年にできたんだ。卒業式は庭でやったもんです。
加藤: 初代の大澤校長が骨を折って、校舎、校庭、設備を整えたんだが、ほとんど広沢地区の寄附でやったんだ。記録がよく残っているけど、市から金が出ないんでなんでも地区で揃えたんだ。
岡部: はじめの木造校舎は昭和26年に出来たんで、私たちは入れなかったんですよ。手伝いはずいぶんやらされたんだけど。
中原: すっかり出来上がったところへ私たちが入学したんですよ。だけど、いい校舎じゃなかったです。戦後で何もない時代でしたからね。しかし、小学校はいい校舎だった。
加藤: 小学校は、桐生市に合併する前に広沢にあったお金を全部学校建築につぎ込んだから、いい校舎だったんだ。戦後は大変でしたよ。何しろ私が昭和21年に北小の代用教員になった時、月給は80円、広沢から駅までバス代が月120円でした。インフレがひどくて1年後には月給が800円になってね。
生活と遊びのこと
加藤: 皆さんが中学生の頃の生活とか遊びのことはどうですか。
山崎: 冬は、雨が降ると小学校の庭が凍って、よくスケートをやったね。下駄の歯にブリキを張るとよく滑ったんですよ。
中原: スケートって言えば、加藤区長の家の倉庫(中島飛行機の倉庫があった)から飛行機の部品の滑車を持ち出して、いわゆるローラースケートを作ったよ。あれは便利で、7丁目の子なんかあれで滑って来たんだよ。
山崎: あのころでもここはアスファルト道路でしたからね。
加藤: 木炭バスが通っていてね。
岡部: バスの後ろにつかまるとよく滑れたんですよ。みいちゃん乗りって言ったんだよね。螺良のみいちゃんがなつかしいね。よく乗っていたからなあ。
加藤: それで学校まで滑って来ちゃったんだね。
荻野: 運転手に見つかると怒られてね。
岡部: それでも事故なんかなくて、木炭車のうしろは子供がいっぱいつかまってたよ。
山崎: いたずらもしたけど、広沢じゅうの田んぼを手伝ったこともあったね。苗間の虫捕りや桑畑の尺取り虫を捕ったり、麦踏みにも行ったよ。他にもいろいろやったね。
岡部: 家に帰ると仲良しクラブってのがあったね。上級生がリーダーで夜は「火の用心」ってまわったね。
班別に柏子木を打ちながら。子供会が活発だったね。
丹羽: 子供郵便局は、亡くなっちゃった金子の侑ちゃんが会長で、私が副会長で日曜日に集まってね。いくらくらい貯金したんだろね。東澤寺で大澤先生が指導してくれてね。
加藤: そもそも、広沢公民館は東澤寺で大澤先生が作ったのが始まりで、終戦後間もなくでした。子供貯金は郵政大臣の表彰を受けていますよ。
岡部: 昔は12区と13区が広中に来ていました。
山崎: 今の西友の近くから来ていた人もいたね。あの辺りから歩いて通っていましたよ。
荻野: あのころはボスもいましたよ。怖かったもの。
岡部: でもあの頃は割と面倒を見てくれたんですよ。家に帰ってからは、学年の違う人とも遊んでいましたけど。ガキ大将がいて統率がとれていましたよ。ずいぶん年の違う子も一緒に遊んだね。
山崎: 大澤のもりちゃんが10人位チビを渡良瀬川へ連れていって川の真ん中でおっ放すんだもの。私なんかいやでも泳げるようになっちゃいました。あの頃は鉱毒でまっ白に濁っていて、体がまっ白になったんだよ。
加藤: 砂の上に鉱毒がつもっていたからね。
岡部: 大人になって子供をプールに連れて行ったら「ぬき手」で泳ぐ人はいなかったね。私たちは先輩からぬき手を教わったんですよ。今はクロールで、何ビートとか言う泳ぎ方でしょう。
丹羽: 私たちは汚い池で遊びましたよ。
山崎: 三角池だ、土手から飛び込むと泥がブワーツと上がってね。しじみも取れた時代だから。
徳田: 「おひきがえる」もいたよ。すべて原始的だったよ。
加藤: 食べ物がなくて可哀想な時代だったね。
中原: 農家の子が羨ましかったね。農家の子はご飯の中にイモがあるんだけど、非農家の子はイモのまわりにご飯粒がくっついているくらいでね。
岡部: 米もイモも配給なんだから、親も苦労したろうね。
山崎: 私の家も少し農業をやっていたけど、米ができたときは米8割麦2割のご飯で、麦のできた頃は麦8割米2割でした。
岡部: あの頃の弁当は、のりをご飯の間と上に乗せて2段弁当でした。
加藤: アルミニウムの弁当箱で、真ん中に梅干しを入れるから、まん中が腐食しちゃったね。
徳田: お茶をくれたんだけど、茶わんを持って来ない者は弁当のフタで貰うと、穴からこぼれちゃった。
山崎: 給食はまだなかったね。小学校はあったのかな。
岡部: 脱脂粉乳でしたよ。
中原: 皆さんはクリスマスにチョコレートを貰った覚えはありませんか。
一同: 全然ありません。
中原: ああやっぱり、私は若いんですね。(爆笑) 私たちはクリスマスにアメリカのチョコレート(注:ララ物質)を貰いましたよ。四角の棒みたいな。
丹羽: 第一、私たちの頃はクリスマスなんて言葉もなかったですよ。
山崎: 私が6年生の時終戦だから、京子ちゃんは4年生くらいかな。
中原: そんなに違いますか。私は1年生だったんですよ。それでも防空頭巾をかぶったり、奉安殿で拝んだ事は覚えています。
加藤: いじめみたいなものは無かったですか。
中原: まあ、ありましたよ。でも、今みたいな陰湿なものはなかったですよ。
徳田: 教室から賑やかな音が聞こえたと思うと、小さい子にバケツをかぶせて叩いて遊んだり。それでもみんな仲がよかったね。今じゃあ、いじめだなんて問題になるな。
岡部: 冬はダルマストーブのまわりに弁当が並んで温めるわけなんだけど、下の方のやつは焦げちゃってまん中が丁度いいのさ。
中原: 大体置く順番が決まっていて、ガキ大将がいい位置を取ったね。
荻野: 昔は教科書が買えなくて、上級生が使ったのを下級生に貸すんだから、汚さないように気もつかいましたよ。
加藤: 家の手伝いなんかはずい分やったんでしょう。
丹羽: 私なんか小学校4年から高校まで牛の鼻取りをしましたよ。
山崎: ハイッ、ハイッてかけ声をかけてね。かどをまわすのにこつがあったよ。
岡部: 今の大型トレーラーの運転と同じだ。
丹羽: そうそう大まわりをしてね。内輪差を考えるわけよ。
山崎: 昔の田植えは楽しかったよ。赤飯をふかして。手伝いに来てくれた人と一緒に食べてね。

台風のこと

加藤: 皆さんは台風の記憶はどうですか。
一同: よく覚えていますよ。
岡部: キャサリンとキティ台風だ。
徳田: アイオン台風の時は相生の土手が切れて広沢が水浸しになったね。
岡部: 中学生は毎日学校へ集まるとすぐに地区へ手伝いに行ったよ。
荻野: 縁の下にヘドロがたまっててね。それをはがしに行きましたね。
山崎: 私が3年生の時でした。ひどかったね。
加藤: 間の島なんか川底みたいになったよ。
徳田: 若手教員が中学生を連れて片づけの手伝いに行って、サツマイモをふかしてもらったことがありますよ。はじめは遠慮した子ども達が、私がちょっと席を外した留守に全部食べちゃって、一本も残らなくてね。(笑)
なつかしい先生や用務員さんのこと
徳田: あの頃は元気のいい先生がいたね。
荻野: 真田先生、石坂先生、多田先生、松村先生、橋本先生、なつかしいね。何かあると「すぐ職員室へ来なさい。」なんて言われて。
丹羽: 中里先生はクリスチャンで、養蚕小屋の2階で勉強を教えてくれたり、先生の本を自由に読ませてくれました。農家の子は字引も参考書もなかったから。
岡部: 源吾先生の宮本武蔵や紀伊国屋文左衛門の講談が楽しくて、真剣に聞いたよ。
中原: 徳川夢声みたいに読み語りが上手で、勉強が始まる前に生徒が「先生この前の続きー、続きー」って催促すると、先生もその気で用意がしてあってサー。
丹羽: 勉強の内容なんか覚えてないけど、先生があんな本を読んでくれたなあって、懐かしいですよね。
中原: 私は先生にはよくひっぱたかれたし、朱墨で習字の時間に「注意散漫」って書いた紙を胸にぶら下げて全校を回らされたよ。(爆笑)
岡部: 徳田先生に怒られて、バケツを持って廊下に立たされたことがあるよ。(爆笑)
中原: でも、そりゃ温情があったよ。厳しい先生は頭の上だからね。
丹羽: 立ってるだけじゃなかったね。
岡部: そうだよ。「ワンワンって吠えろ」て言うんだから。(爆笑)この方がいやだったよ。(爆笑)
丹羽: 校庭3周もよくやらされたね。
荻野: 数学の時間とか、試験の時なんか出来た人から外へ出て遊んでいいって、あれはよかったね。
徳田: 中にはずるをして白紙のまんま出して遊んじゃったんもいたよ。何しろ1クラス75人もいたんだから。
荻野: 75人の時は、後ろの方の席は先生の声がよく聞こえないから小説なんか読んでいましたね。ところが石坂先生、多田先生は目ざとくてすぐ見つかっちゃって。(爆笑)
徳田: 見つかればゲンコツだったろう。(爆笑)真田先生も凄かったね。
山崎: 英語の先生でね。広中の応援歌を作ってくれたんだよね。
中原: 「広中ナインサンシャイン」だ。それにしても、あの頃の先生はよかったね。思いっきりピンタンをくれられたもの。学校で殴られて、家に帰って話すと「おまえが悪いからだ」って、また親父にブン殴られて。(爆笑)
加藤: 石坂先生もよく殴ったなー。
中原: 学校の先生とおまわりさんは絶対正義の味方だったんだよ。
岡部: 大島先生は軍隊帰りだったし。
山崎: 革のスリッパで叩かれたよ。
岡部: 今思うと、ひっぱたかれた先生を一番よく覚えているね。
中原: あの頃の先生は信念を持っていたし、愛情を持っていたんだよ。
岡部: その代わり百姓もよく手伝わされたよ。農繁休暇中は、多田先生の家や毒島源吾先生の家の手伝いをやらされたよ。だから田植えだって鼻取りだってみんな出来るよ。
中原: 困っている子の親に陰でそっと旅行費を出してやって子どもを修学旅行に連れていってくれた先生がいたんだって。自分の小遣いをはたいてくれたんだよ。同級会の度にその話が出るよ。
丹羽: 徳田先生が結核で江木へ入院した時、私は心配で心配でおばあさんに話したら、栄養のある物を食べさせるんが一番いいって、当時栄養のあるものっていえば玉子なんだけど、玉子は病院に持っていけないから、農協のパン屋にいた丹羽ひろえさんに玉子と粉を持っていって特別に1枚カステラを焼いてもらってね。心細かったけど、一人で電車に乗って、これを食べさせれば結核が治るんだっていう思いで一生懸命行ったんです。ただ先生に元気になって欲しくて、これは今まで誰にも言わなかったことなんですけど。
徳田: そうですか。それはどうもありがとうございました。
岡部: イヤー。ほのかな思いがあったんだろう。(爆笑)
徳田: 独身だったからね。

学芸会、運動会のこと

加藤: あの頃は娯楽のない時で、学芸会は楽しみでしたね。
岡部: 多田先生が早稲田を出ていたし、エノケン一座にいたから演劇は見事だったんですよ。
中原:「浦島太郎」の時もマグネシウムをボッと焚いたりして、玉手箱から煙が出たんだよ。
荻野:「ぶす」は、群馬会館まで行って優勝したんでしょ。太郎冠者をやったのはふみえさんじゃないかしら。
岡部: 学芸会は各組から二人ずつ代表が選ばれたんだよ。
丹羽: 職員室で台詞を読まされたりしてね。
山崎: 2か月も3か月も前から練習したね。
中原: 運動会は思い出したらきりがないね。赤城、榛名、妙義の団を作って対抗戦をやりましたよ。縦割りでね。棒倒し、騎馬戦では普段気にいらねえ上級生をとことんやっつけたよ。
徳田: 赤城は赤、妙義が黄色、榛名が緑だったね。あとで浅間が増えて白だった。
荻野: ソフト部と野球部は優勝旗を持って優勝行進をしたんです。何しろソフト部は県で優勝したんですよ。
中原: 昔は運動会は家族総出で楽しみでしたね。露店が出てね。お祭りのようなもんでした。
加藤: 親は早く行って場所取りをしたよ。
丹羽: お寿司を作ったり栗をゆでたり、みかんも出来る頃でね。
中原: 御馳走が食べられるのが何より一番の楽しみでしたよ。
荻野: 栗を持ってくる人が羨ましくてね。
徳田: そういう点ミネちゃんなんかよかったんだよ。家に柿も栗もあったんだから。
岡部: 十五夜にはそういう家へよくドロボウに行ったよ。追いとばされてひどい目にあったけど、あの頃はうまいものなんかなかったんだから。甘柿だって滅多にないんだから渋くても食べちゃったよ。

補習授業のこと

岡部: 高校受験のための補習授業は我々の頃から始まったんですね。放課後一教室に集まったんだけど、3分の1くらいだったかな。
徳田: 敏夫さんの頃は理科室でいく人かやったけど、結果的にはあの年だけ無試験で全員希望校へ行けたね。
岡部: 我々の時も補習のおかげか全員入りました。それからしばらく補習が続いたんですね。私は中学3年間で勉強した思い出は補習だけですよ。(笑)
部活動のこと
加藤: 皆さんの時代の部活はどうでしたか
丹羽: ソフトとバレーがありましたけど、私なんか農家の子は家の手伝いをしなければならないから部活に入れませんでした。
中原: 我々の頃は野球、ソフト、陸上もあった。
山崎: 卓球は同好会みたいなものだったけど、県大会の予選に出た覚えがある。丹羽泰三さんもうまかったよ。好きでやってただけあって。しかし、どの部もユニフォームなんてものはなかったね。あの当時は着るものは買えなかったですよ。
中原: 我々の頃はソフト部と野球部が仲が良かった。毛里田中へ行く時は、ソフト部の女子を自転車に乗せて行ったよ。
荻野: 私は徳田先生に自転車を借りて佐野まで試合に行きました。帰りは真っ暗になって学校へたどり着いたら、先生が一人で待っていてくれて、「無事に帰れてよかったな」って言ってくれて涙が出ました。あの頃は桐生に敵なしで、足利、佐野、毛里田と遠出をしました。よく行ったもんだと思います。
徳田: 栃木県は二人乗りすると怒られてね。小俣へ行った時は、橋を渡ると歩いて、帰りは交番を通り過ぎると二人乗りをしたね。見つかると追いかけられて、全く嘘みたいな話だよ。境橋まで追いかけられて、橋を渡っちゃえば大丈夫さ。(爆笑)
加藤: ソフト部の顧問はだれでしたか。
荻野: 真田先生がはじめて作ったんです。私はバレー部でセッターをやっていたのに、ある日突然、今度ソフト部が出来たから今日からソフト部だって言われて。でも電車に乗って県大会へ行けたのは嬉しかったですね。ピッチャーは秋本さんだったわ。キャッチャーは桜井さん、私はサード、ファーストはミツさんで、のり子さんがショートだった。
岡部: 真田先生が応援歌も作ってくれてよかったよね。新川球場へ応援に行って「広中ナインサンシャイン」をみんなで歌いましたね。
荻野: 野球部もよかったよね。
中原: ユニフォームに「H」がついたのは多田先生が早稲田出身で、文字も早稲田カラーだったんだ。我々が1年の時に出来たんだがあれが着たくて野球部に入れることが憧れでね。広沢の野球全盛期でしたから。トラックに乗って敷島まで応援に行ったりしてね。野球部はとにかく花形で、農協へ行って焼きたてのパンを食べさせてもらったり、生卵を2つずつ貰ったが、食べずに家へ持ち帰ってみんなに見せびらかしたよ。
加藤: 野球部が強くなったんでバックネットを作ったんだ。体育館の床がコンクリートだったのを板張りにしたのも全部地区の人の寄附だ。当時の300万円は凄いもんで、斉武さんなんかよくやってくれた。
中原: 野球部の多田先生は厳しくって水を飲ませてくれなかったから、ボールが田んぼに落ちると嬉しかった。拾いに行ったついでに田んぼの水が飲めるんで。ところが唇がきれいに濡れていたり、口の周りに藻がくっついてきて、バレちゃうとまた怒られる。(爆笑)またゲンコツさ。(笑)でもね、野球部は社会は5が貰える。掃除は免除されるってわけで優遇されたんだよ。だけど、革のグローブとかスパイクなんてなかったんだ。3分の2はズックで、3分の1は革の張ってあるスパイクだったよ。
荻野: 私たちソフト部は素手でした。グローブはピッチャーだけよ。だからボールを取る時はスーッと後ろに引いて取るんですよ。そうすると痛くないんです。何しろ素手で裸足でしたよ。
岡部: ズックっていったって南京袋みたいなやつだったからね。

修学旅行など

加藤: ずいぶん楽しい思い出が出てきましたが、修学旅行なんかどうでしたか。
山崎: 私たちにはそういう思い出がないですね。江ノ島かなあ。それも希望者だったのかなあ。
岡部: 我々が最初かな、全員で1泊2日しました。
中原: 我々は2泊3日でした。箱根と修善寺でした。来年は還暦なので、その地をもう一度やろうと言っているんです。
岡部: 芦ノ湖畔の橋本旅館でね。嬉しかったね。煙の出る汽車に乗って、鼻の穴が真っ黒さ。(笑)小田原で乗り換えて、強羅から登山電車に乗ったねえ。それから歩いて大涌谷へ行って、芦ノ湖では遊覧船に乗って元箱根へ行って、帰りはバスで十国峠を越えて来ましたよ。今の中学生は奈良、京都へ行くそうだけど、我々は高校で行ったんです。
山崎: 二見、奈良、京都だったね。一緒に行ってくれた看護婦さんが「二見 徳田: お寺の裏山へキノコを採りに行ったよ。(爆笑)他に食用になる葉っぱなんかも採ってきたね。榛名にも行ったね。今ではとても許可にならないことなのに、私も無茶をしたもんです。
山崎: 磯浜じゃ小学校を借りて泊まりましたね。毛布とジャガイモ、米を持参して4泊5日したものです。
丹羽: 蚊帳も持って行きました。
荻野: 磯浜から大洗まで小さな船で行ったら、みんな酔っちゃって、それで帰りは松林の中を歩いて歩いてマメが出来るほど歩いて帰りました。それでも初めて海を見た感激は忘れられません。
岡部: 私たちも修学旅行で初めて海を見て、ウワーって歓声が上がったもんですよ。
丹羽: 授業より何よりああいう感激は忘れられません。
山崎: 磯浜は、トラックの荷物の上に乗って行ったよ。お巡りさんのいそうな所じゃ見つからないように下に潜れって言われてさ。親父がスイカを持たせてくれたんだけど、もったいなくて食べずにいてね。帰る日にスイカ割りをして食べようとしたら、腐っていて残念な思いをしたよ。真夏の暑い中で幾日もおいたんだもの腐りますよ。
中原: 修学旅行じゃないけど、みんなで行ったことはいろいろありました。赤岩橋の方まで写生に行ったこともある。絵のうまいヤツに任せておいてよくさぼったよ。野球のある日は授業なしでみんなで応援に行って、「広中ナインサンシャイン」を歌ったねえ。
岡部: 松田へ石をとりに行って硯を作ったこともある。全員っていえば、ゾロゾロ歩いて映画を見に行ったね。
徳田:「緑の小箱」とか「鐘の鳴る丘」とかね。
岡部: 外へ行くって嬉しかったよ。生き生きしてたもの。

後輩へ一言

山崎: 今の子は恵まれすぎている。昔は高校へ行ける人も少なかった。120人中20人くらいだったと思う。物のない時代で、粗末なものを食べていた。弁当はいつもサツマイモ2本という子もいた。今は恵まれ過ぎとスパルタ教育がなくなったので殺人事件なども起こるのかもしれない。今一度「人間としての生き方」をしっかり考えて欲しい。
荻野: スポーツをすることを勧めます。スポーツが一番いいです。その年代で出来ることを一生懸命やることがいいと思います。中学生は、中学生だからこそ出来ることをやって下さい。
岡部: 50年の歴史を振り返ると、小学校の仮住居からこんなにいい校舎になったし、庭も整備されて、学ぶ環境がよくなりました。先輩がやってくれたのです。先輩の功績を広中生にずっと伝えて行ってほしいと思います。時には昔を偲び、振り返ってみることもいいことだと思います。
中原: 昔を語って、古傷をなめるような思いもあるが、楽しい中学時代でした。今の子は可哀相だと思うこともある。我々は悠長だったから。それから友達が財産です。中学時代の友達を大切にしてほしい。また、今は「危ないからダメ」と言われ、手足を伸ばせないこともあるだろうが、心の面でも欠けているものがあるのではないかと心配です。
丹羽: ものの豊かさより心の豊かさを大事にして欲しいです。私は学校へ行かせて貰えるだけでも有り難かったです。今思うと下の方から水を汲んで来て水瓶に溜めるのも子供の仕事だし、百姓仕事も随分やらされて可哀相だったけど、そのお陰で今は野菜作りを楽しめます。あの頃の体験のお陰だと感謝しています。
中原: 今が良かったかどうかは、何年か後にどう語られるかであるが、広中の生徒だという誇りと自信を持って、いい学校生活を送って欲しい。
岡部: 躾、その他何でも学校に押し付けてしまうような親もいるらしいが、我々は「叱れる大人」になるべきだと思う。
山崎: 自由とわがままをはきちがえている向きもある。そういう中でのびのび教育というのはおかしいので、親もしっかりしなければならないと思います。
中原: いじめが見抜けないとしたら、それは横のつながりが足りないのだと思う。同級生、仲良くして欲しい。
丹羽: 感謝の気持ちを忘れてはいけないと思います。たとえ義務教育でも、親たちが働いてくれるお陰。自分は学校へ行かせて頂いているのだ、という気持ちを持って欲しい。行ってやっているような気持ちになってはいけないと思います。
徳田:「先生より偉くなれ」と望んでいたが、教え子がこうして立派になっているので、教師をしていて良かったと思う。もう還暦を迎える人もいるけれど、益々活躍して欲しいと願っています。広沢はもともと純朴でいい生徒ばかりです。
加藤: 本日はお忙しい中、貴重な時間を頂きありがとうございました。今後とも広沢中学校と地域の発展のためにご尽力下さいますようお願いいたします。大変お疲れ様でした。
(文責 編集部)

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