広沢中学校50年の歩み
50周年記念誌より

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寄稿

広沢教師生活の思い出あれこれ
元教諭  徳田 基
(昭和23年度〜41年度)
昭和22年学制改革が行なわれ、4月19日に広沢小学校の裏の校舎を借りて、新制中学校桐生市立広沢中学校が誕生し、この年の新1年生が新制中学校の最初の1年生になった。従って、2,3年生は旧制の当時あった高等小学生が入学してきて、広沢中学校ができ、ここに50周年を迎えたが、新制中学校開校時どこが違うかというと、教室を例にとると、新制1年生は男女共学で、2,3年生は戦争中と同じ男子と女子が別々の学級編制だった。
私は昭和23年に勤めたが、この時は新制1,2年生が男女共学で、各学年とも各3学級であったが、3年生は教室が足りないので男子組、女子組の2学級であった。理科を担当していた私は、3年の男子組へ行き、戸を開けると何か異様な感じがした。これは二組にしたので、男子約70名がぎっしりつまっていると何か身がしまる気がした。戸を開ける前から勇ましいどなり声や、ばけつをたたく音がたびたび聞こえてきた。
満足な教科書もなく、ノートも鉛筆も不足がちで、特に昼食の弁当には参った。
今のように給食もなく、昼食は自由で担任に話して生徒は自宅へ食べに行ったりしたが、中にはそのまま午後の授業をさぼり、山へ小鳥の「めじろ」をとりに行ってしまった生徒もいた。また、なかには家へ行ったはずの者が教室のまわりの暖かな所へうずくまり、だぶだぶで継ぎ目だらけの服装で昼食をとらない者もいた。
このような、何もかもないないづくしの中で、とりえはスポーツと学芸会くらいだった。23年は野球が強く、3年生を主体としたチームは野球大会でしばしば優勝した。この野球監督は、エノケン一座にいたこともある先生で、当時唯一の娯楽は学芸発表会と展覧会だったが、学芸会の出し物にすぐれ、「浦島太郎」や群馬県コンクールで優勝した「毒(ぶす)」は狂言を演じた劇である。
健全な遊びがなく、どのクラブに入ったらよいのかわからない、いわゆる失業生徒、いくあてもない生徒を救おうと「科学部」を作り、勉強のかたわら近くの野山へ行き、動植物の学習をした。特に忘れられないのは23年の夏休みに今では許可が得られない、科学部の大洗海岸の4泊5日の旅行だった。中学校の若手の先生だけでは足りず、同じ校舎の小学校の若手の先生の応援を得て、米と毛布を持って磯浜小学校を借り、食事を小学校の先生が用意してくれた。
また秋には、夜の最終バスで伊香保へ行き、そこから歩いて榛名湖畔まで行った。暗闇の中にぽっかり旅館の灯りが見えた時には誰かれとなく「山小屋の灯」の歌が始まり、それが山々にこだまして楽しい思い出となった。
旅館には先発隊の3年生が布団を敷いて出迎えたのには感激した。ただ、その布団が終戦間もなくなので、布がなく黒っぽい綿だけには参った。
まだまだたくさんあるが、時は流れ、この生徒達も還暦の年を迎え、ここ4年間で4回還暦同窓会に招待された。
思い出
元教諭 大島 良吉
(昭和22年度〜41年度)

広沢中学校も創立50周年を迎え、輝かしい実績を積み重ね、今なお弛みないご精進を続けておられますことまことに慶賀にたえません。
私は創立初年度からお世話になりましたが、右も左もわからず、学校教育や児童及び青年心理なるものがどんなものであるか、全くの無知のままの授業であった。まして復員間もない若気も手伝って生徒たちにはずいぶん乱暴な指導をしたものだと、今更悔いることもしばしばである。棒やスリッパなどで生徒の頭を殴ったことも1度や2度ではなかったような気がする。
しかし、お互い若い気持ちが通じ合うところがあってか、後までしこりが残るようなことはなかったと思う。
2年目に入って間もない頃、私の宿直の夜など第1回卒業生が大勢遊びに来て談笑することがしばしばあった。
そんなある時、昔使った大火鉢に薪を入れ過ぎて炎が天井近くまで上がった。大慌ての態ですぐに消し止めたが、思い出すだけで唖然とするようなことがあった。
まさに教師失格というべきか、今更大いに反省させられる出来事であった。
また、当時は思想や教育についても過渡期であり、更に食糧不足やインフレということもあって社会全体が慌ただしい状況下にあった。そんな中にあって、生徒の気持ちは元気さの中にも何とはなしに空虚な感じがあったのは否めない。こんな中で、無知と若さががむしゃらに生徒の中に飛び込んでいったことが、かえって心の触れ合いを深めたようにも思う。
校庭の周りに米やサツマイモを作り、生徒と一緒になって増産に精を出したことも、自然の中から学び、そして働く喜びを体得するための一助にはなったのではないか。
時を経て、当時の木村校長先生のご尽力で、市内中学でも初めての大きな温室を作って頂いた。そして園芸部を中心としたみんなで、鮮やかな草花たちをたくさん育てて、一つの楽園をつくり上げたことがあった。
美しい自然環境の中にあって、豊かな情操を育むために大いに役立ったのではないかと自負している。今の時代と対比してみて、心の教育なるものを先取りしたような試みであったように思う。
当時の卒業生の皆さんは、こんな教師が居たことを、今、どう思っているでしょうか。
拙文で恐縮ですが思い出の一端を述べました。広中の益々のご発展をお祈り致します。

温かい風の中で
教諭 西山 千代子
(昭和58年度〜平成2年度)

当時「第一養護学校」との交流は、教師として原点に戻り自分を見つめ直す時ともなりました。空き時間を利用して給食の様子や授業参観に行きました。子供と一つになり育てることに心を砕いている先生方に出会い、自分が揺さぶられました。どうすれば一人で食べらるか器を工夫したり、口へ運ぶのをじっとやさしい目で待っている。私たちがいつも使う「はやく!」という言葉は一つも出ない。その子の中から出てくるものをじっと待つ姿がある。子供たちも、そのままの自分を先生にぶつけ真剣に生きている様子でした。広沢中に戻り、アゴ一つ動かせば給食も清掃もする状態にとっぷりつかっていた自分を恥じました。その日は「大事なものを失っていた自分」が胸の中で大暴れをしていました。
子供同士の交流はやはり、心を打つものです。一緒の絵画授業、リーダーはそれぞれの学校代表、生徒たちが選びました。絵画は知識だけではありません。心象表現です。美しい色使いやファンタジツクな構成に「きれい」という感嘆の声が広中の子供たちの中からわきました。筋ジストロフィーで動かない手を伸ばして、美しい心の色を塗る。次の年にはもっと動かない腕をやっとあげての姿。何の言葉もなくただ見ている私でした。後で聞けば、自分の命は18歳まで持たないことを知っているとのことでした。教師としてもっと何かできることを捜そう、子供のために役立てる教師に育とうと、今までの自分を悔いたときはこのときが一番でした。
広沢中の生徒も人間的な成長ができました。援助はどうすればいいのか「かわいそう」という同情だけでは同じ社会に住める自分たちではないと考えました。学級活動で「私たちの交流」について何度も話し合いました。そして、体や能力の障害を超え、人としてつながることが交流と自分たちの結論に達しました。
校内の弁論大会では、2名の友達に参加してもらいました。今でも言葉と、その姿が目に焼きついています。「僕はいつも人に助けてもらっている。だから、できることをやっている。朝学校へ行って先生のトイレをこする。」両手に補聴器をつけやっと立っている生徒が体のバランスを保ちながら、「先生のために」と清掃している姿が目に浮かびました。「人のために自分ができることを」とたどたどしい言葉で表現しましたが、私たちの胸の奥にはっきり届きました。広沢中の生徒の目に感動の涙が溢れ。会場は味わったことのない静寂に包まれました。広沢中の生徒がやさしい顔つきになっていく様子を見てきました。人の出会いが人を変えていく。養護学校の生徒とともにすばらしい時をすごしました。広沢中には温かく、優しい風が隅々へ流れていました。その中に自分を置けたことが幸せです。私の中に新しい芽が育ってきました。広沢中の8年間へ感謝です。

この道に進んだきっかけ
昭和25年度卒業 毒島 章一

プロ野球という世界に入るきっかけをつくってくれたのは、多田先生であった。
野球を始めた当時は、野球用具はなく、ラケットとテニスボールを使った三角ベースボールで、毎日同級生と野球に明け暮れていた。
当時の私は、人前で話をしたりすることは大変苦手でした。それを取り払ってくれたのは、多田先生でした。
ある日、国語の時間に、全員が本を読まされました。不思議に思っていると、劇をやるということでした。多田先生が劇の監督で、「浦島太郎」と、「鐘の鳴る丘」という戦災孤児の物語をダブらせて劇をつくり、「浦島太郎」に久保田さんが選ばれ、私は「亀」の役をもらい、前橋の公民館まで行き、公演をしました。この劇のおかげで、人前にも出られるような度胸をつけていただき、今でも大変感謝しております。
多田先生が野球部の監督になってから、野球の知識をスパルタ式に叩き込まれ、今考えると、よくこんな事まで教えていただいたものだと、有り難く思っております。
まず、右打者だった私を、左打者にかえてもらったきっかけは、左打席に立つと、相手投手のストライクが入らなくなるので、1番から9番まで左打席に立ったことがありました。そんなことをしているうちに、左打ちがうまくなり、当時としては珍しい右投左打の打者が出来たのです。
また、外野フライの取り方は、子供の私達には出来ない取り方を教えてもらいました。フライは落下地点に早く行って、待って捕るのが基本ですが、それも落下地点までボールを見ずに走る練習を、いやというほどノックを打たれました。この練習で、初めて見ずに落下地点まで行き、顔を上げて見た時、ボールがそこに落ちてきて、これを捕った時のうれしさは、いまだに忘れる事が出来ません。
ピッチャーの練習では、碁盤を持って来て、「白」がストライク、「黒」がボールで、「白」が多くなるまで投げさせられました。当時はスパイクもなく、粗末なズック靴で投げているうちにこわれ、素足でピッチングをして親指の皮がむけ、血だらけで投げた思い出もあります。
練習の終わりは、いつもランニングで、疲れがひどかった。夏の暑い時も水は飲ませてもらえず、頑張ったものでした。
市内では、広沢中学校は強い方で、よく県大会にも出場しました。今になってみると、遠きよき思い出となっております。
あの頃の練習がなければ現在まで野球に関係のある仕事を続けている、今の自分はなかったと思います。
野球界に入るきっかけをつくってくれた恩師、多田由雄先生には、感謝の気持ちでいっぱいです。
野球は、団体プレーと個人プレーが実にうまく組み合わさった、素晴らしいスポーツです。
チームワークはただ全員が仲良くやるのではなく、個人個人が自分の力を100%発揮してこそ、チームワークのよいチームが出来るものと思います。その中には、相手にやさしく捕りやすい球を投げてやること、相手に迷惑をかけない思いやりのあるプレーこそ大事なことと思います。
野球を通して人間形成″mZ時代の恩師、稲川先生の言葉です。
運動に、勉強に、楽しい中学校の生活を送ってもらいたいと思います。

旅情の抄
昭和28年度卒業  市川 登孟胡 (旧姓 岡田 本名 市川 ミチヨ)
東京から数時間   帰郷してみると輝いた星々が暗い天空に浮かび、旅の心を和ませてくれます。そして、通り過ぎし長い年月など、嘘のように、水に流されてしまいます。
私は既に、東京暮らしの方が長く、信じ難い気持ちです。物語は進み、広沢中学時のクラス会では、その長い音信不通の空白など埋めながら、親交を温めあって、十分なほどに喜びを感じているのです。
このクラス会、名称「広二九会(コウフクカイ)」は、卒業数年後に名言し、発足したものです。昭和29年春中学卒という意味合いだそうです。この度の記念誌、原稿依頼は、「広二九会」より寄贈致しました一枚の絵に端を発した出来事のように思います。私が絵かきとしてまだ心象画を描いていた頃の作を、全員で額縁に入れて下さり、学校に納めて下さったようです。(編集部注:校長室に掲げてあります。)
このような50周年の機会を得て‥‥子供の頃を振り返り見れば、昭和27年から29年までの3年間が中学時代ですが、一般的に生活苦の方が多く、すべてに対し感動もない、心の扉を開くことが出来ませんでした。そして、世の中を知るなどと考えもつかないうちに卒業していました。また、就職に対する好奇心も持たず、当時は漠然と過ごしておりました。希望・夢と相次ぐ言葉も無意味でしかなく、生活という場に入りこんでいきました。
さて、懐かしくもあり、印象的な思い出が記憶されておりました。小学〜中学になると、授業の科目が変わり、新鮮でなお勉強にも拍車がかかったつもりでした。教え方は、安藤昭二先生の数学なのです。親しみやすく、先生にはハートのドアがありました。ですから、とても快適な気持ちで勉強が出来ました。が‥‥家の事情で学校も休みがちとなり、勉強の遅れもあってか、方程式や代数の段階になると、頭に入らず、黒板に書かれた数式だけが、身勝手に目の前を通り過ぎていってしまいました。数式は、教室の置き土産となってしまいましたが、数を増し、殖して、私の元に辿り着くことでしょう。次なる用途のために。
学校に対して少女時代は義務感が強く、休むことがいやでしたから早退に出かけます。約1里近くもあるのですから、2時間位かかります。農繁休暇があっても日数が足りず、私は子守りや母の引くリヤカーの後押しなどで休んだものです。楽しみといえば、放課後のバレーボールの練習ではなかったかと、思い出されます。時には街の某中学校との試合もあり、負けて帰ってきた記憶もどこかに残っております。また、山や川、田んぼの摘み草などなど、私にとって、楽しい思いでの一つでした。
卒業間近、就職するのは、「東京」へと聞かされ愕然としたものです。なぜなら、友が外国へ行ってしまうのではないかと、考えることすらありました。二度と会うことが出来ない心情でしたので、不可思議な風の招きがあったのかもしれません。すべての現象は、未知の世界から運命が訪れるものでしょう。
私の重要である大半に蓄え持った一瞬一瞬は、とおり過ぎし計画も、人生讃歌の主張です。この「プロフィール」には、音楽の世界に身を投じ、爆発させた夫との出会いがあり、誕生した子供との生活などなど、今、心に甦ってきたようです。
   具象   幻化抽象の世界へ真理を求めて  
日本画を描き始めて34年。絵画という色の中で、絵に対する追求もまた数値の領域と対象物を円に求め、「円とは何だろう」果てしなく続く色彩の旅は、時の流れのように、到達することなく、絵画の結晶を生み出していくことなのでしょう。思い描くと、それは生への遺産なのです。
私と陸上部の思い出
昭和34年度卒業 中村 忠
中学校に入学して間もなく、体調が悪く常に病気がちだったが、2年生の後半になって、体調も戻り、陸上部に入ることを決め、さっそく練習に入った。
自分にとって、最初の大会は堀マラソンであった。練習不足から、スタートからゴールまで記憶にないくらい苦しいレースであった。結果は28位であった。
こういう練習をしていては相手に勝てないと考え、自分なりに練習計画を立て、3年生になったら絶対に勝つと決めていた。この頃1500mを5分以内で走ればまあよし、という時代だったが、広小の校庭(200mトラック)で常に5分を練習で切れるまでに記録は伸びていった。
楽しみにしていた堀マラソン(当時は5月)では、計画どおり楽勝で優勝しました。これが私の陸上競技人生の始まりとなったわけです。
中学3年生のときの市内の大会はすべて優勝したわけです。次の目標は、県記録を破ることでした。(当時の県中学校1500mの記録は大間々の目黒さんという人がつくった4分37秒であった)県大会で是非破り、勝ちたいと猛練習に励み、ついに4分28秒で当時の県記録を樹立することができました。
これで中学校生活の目標は達したわけだが、残るは駅伝大会で仲間と県大会に出場することでした。これも皆の頑張りで優勝し、いよいよ県大会という時、当時の陸上部の顧問の関口先生に皆で呼ばれ、全員に「生玉子」「あめ」を与えられ、「生玉子」を飲むと栄養がつくと言われ、皆で生玉子を飲んだ思い出があります。
今考えると非常に懐かしい思い出であり、物資のない時代のありがたさが伝わってくると思います。こうして県中学校駅伝に出場して、結果は第7位で、私の中学校陸上生活は終わったわけです。
ここでこの貴重な経験を生かし後輩に広中の長距離の伝統を築いてほしいと思い、私の知り得た情報をもとに、高校、大学の練習の中から後輩の練習計画を立て、県駅伝優勝をしてほしいという願望を後輩に託しました。
これが4年後に開花したのです。私の弟の繁を中心に(長谷川君、今井君等)県中学校駅伝史上最強のチームでついに優勝、頂点に立ったわけです。以来県大会2年連続して優勝したわけです。
広沢中陸上部の伝統を築いてくれたわけです。今思えば大変懐かしい思い出であり、ついこの間の出来事のように私の脳裏をかすめます。広中創立50周年史にこの思い出を載せて頂く機会を与えてくれた関係皆様に感謝し、私の思い出といたします。広沢中の後輩諸君、これからも頑張って。
ブラスバンド部の思い出
昭和42年度卒業 周藤 通子(旧姓丹羽)
広沢中学校開校50周年を迎えられましたこと、喜ばしく心より御祝を申し上げます。
「光陰矢の如し」と申しますが、それにしましても50年という年月はかなり長いものです。その間、社会情勢においても幾多の変遷があり、学校もまたそれを乗り越え、年と共に栄え、今日までたくさんの卒業生を送り出し長く尊い歴史をつくってまいりました。
私が在校していたのは、昭和40年代前半のことです。今こうして振り返ってみますと、一つ一つが楽しい思い出としてよみがえってまいります。その数々の思い出の中でとりわけ思い出深い広中ブラスバンド部の活動の一端を書いてみたいと思います。
当時ブラスバンド部は、音楽の松島俊雄先生の御指導の下に部活動を行っておりました。今の中学生の皆さんが部活動を楽しんでいるように、私たちにもそんな時代がありました。
まず第一に、産文大ホールでの発表会でした。教育文化祭の一環だったのでしょう。大きな舞台での演奏は本当に嬉しいものでしたが、同時に緊張の連続で変わった音でも出してしまわないかとハラハラドキドキ夢中のうちに時間が過ぎたのを覚えております。終了した時の喜びは一入でした。
また、夏休みには合宿がありました。その頃の中学生としては大変珍しいことだったと思います。まだ梅北山の家が開所間もない頃でした。そこでの合宿は私たちにとりましては楽しいという一言に尽きました。練習もそこそこに慣れた手つきでの食事の準備、初めての飯盒でのご飯炊きでは煙で、目をこすりながらのものでした。また、夜のきもだめし、朝の清澄な空気の中での練習、等々鮮やかに思い出されます。
秋の運動会では、バトンガールの登場です。まだこの辺りではほとんど見られなかったかと思います。華やかな衣装に身を包んだバトンガールが演奏に合わせてバトンを鮮やかに操りながら行進し、その後をブラスバンドが演奏しながら行進します。その光景は、今の時代においても古さを感じさせないものではないかと思います。
思い出は尽きませんが、このように進歩的な先生の下で楽しく有意義に部活動ができたことは、私だけでなく当時のブラスバンドの仲間が同じ思いを共有しているものと確信しております。仲間と一緒に泣き、笑い、同じ体験を通して更に生涯の友へと発展していく……。そんな部活動の意味が30年以上たった今、しみじみと思われます。皆さんも部活動を通して「和」を大切によりよい仲間作りをモットーに、それぞれの目標に向かって御活躍下さい。素晴らしい成果を見ることになりましょう。
開校50年、重ねてお祝いを申し上げますと共に、広沢中学校の益々の御発展をご祈念申し上げます。

中学校で学んだこと
昭和52年度卒業 鯵坂 泰子(旧姓星野)

我々昭和52年度卒業生が、母校広沢中学校を後にしてから早20年。5年毎に集まっている同窓会も4回目の準備を進めております。
今年、広沢中学校が創立50周年と聞き、「……ということは、私たちが学んだ時の中学は創立30年にもなっていなかったのか……」と、少々驚きました。というのも、当時13歳の私たちには木造2階建てのボロ校舎が、制服や男子の坊主頭と共に、伝統のような、ちょっとした堅苦しさの象徴だったような気がするからです。
小学校では校舎新築を体験し、プレハブ教室の不便さを感じながらも最後の2年間をピカピカの鉄筋校舎で過ごした私たちにとっては、中学校の校舎は"パワーのはけ口"だったのかもしれません。
……あそこの廊下のあの板は今にも抜けそうでおもしろい、この黒板の下の板を外して隣の教室へ、床の穴はゴミ捨て場……など、今考えると何と幼なかったことか。
子供の純粋さは失いつつも、大人にもなりきれない不安定な幼さは、勉強などは気にもせず、遊びを探しに登校していたものでしたから、先生は次々といたずらを考え出す生徒に呆れ果て、苦笑したものでした。
当時の広中の先生方は、我々の父母より年配の方が多く、おだやかな小学校の雰囲気と比べると生意気盛りの私たちから見ても、あの職員室に入るのにはちょっと背筋を伸ばしたような気がします。
決して広いとはいえない煤けた職員室に、所狭しと並んでいる先生方の机、わら半紙とインクの匂い、その中にいらっしゃる先生は恐そうだったけれど、とても温かだった。そして、とても人間臭かったと思います。
いつも横のつながりの中で思考し行動していた私たちが、部活を基とした上下関係や進学問題にぶつかった時、大きな社会の中で生きていくために必要な基礎を人生の先輩として、幼い我々に正面から向き合って導いて下さいました。
クラスで起こった些細ないたずらに対しても、クラス全員で解決するまで帰してもらえなかったのも、自分たちの行ったことへの責任の取り方を教えていたのだと、今になっては英語や数学などの勉強以上に深く心の中に刻み込まれています。
広中を卒業してすぐに社会に出ていった者、進学して都会にそのまま住んでいる者、今は広沢に残っている者も数少なくなりましたが、5年に1度同窓会で顔を合わせると、中学生だったあの時のまま、先生を囲んで馬鹿を言い合えるそんな今があるのも、あのボロ校舎で過ごした3年間が楽しく充実したものだったからでしょう。
私も2人の子供の親となった今、中学校は勉強だけでなく人と人とのつながりを学ぶ場であってほしいと思っています。それが社会に子どもたちを巣立たせる「地域の中学」の役割でもあると考えます。
将来、今の子どもたちが自分の母校と友人を誇りに思える日が来ることを、そして「学校」というところが楽しいところであり続けることを切に希望しております。
ダンス部の思い出
昭和61年度卒業 高山 朋子
創立50周年、おめでとうございます。
私は、昭和61年度の卒業生で、当時ダンス部に所属していました。
音楽が体育館に鳴り響き、フロアの半面を使って、ダンス部が曲に合わせて踊っていました。体全体を波のようにうねらせたり、ロボットのような硬い動きをしたり、時にはドドドン、ドドドンと地響きのような足音を立てたり・・・。いつのまにか私は見入っていました。ほんのわずかな時間の中でなんだかすっかり吸い込まれていたのでした。たった1曲の中でこんなに表現できるのかと、とても感動しました。
私は、すっかりダンスの魅力に引きずり込まれ、入部しました。しかし、踊ったこともなく、体もそんなに柔らかくなかったので、少し不安でした。
部活は、いつも柔軟体操から始まります。作品を作るのに、まずテーマを決め、それから曲、構成、配置、振り付けを決めていきます。練習場所は少し狭いのですが、体育館のステージでした。しかし、週2回体育館のフロアの半面を使うことができました。
顧問の阿部先生は、背が高く、ダンスをしているせいか姿勢がとても良く、いつもきりっとしていました。竹を割ったようなさっぱりした性格の先生でした。作品が完成すると先生に見て頂き、アドバイスを受け、それから部分練習。
阿部先生は、愛用の小振りの太鼓と撥でリズムをとり、表情や目線など細かなところまで踊りをチェックします。先生の声、そして太鼓の音が鳴り響き、この時はなんとも言えない緊張感がありました。太鼓を叩いている途中、太鼓の撥が折れてしまったこともありました。それほど、先生は熱心に指導して下さいました。
そして忘れもしない3年生の夏、大会当日、黒のレオタードを来て自分たちの順番が来るまで、今までになくとても緊張していました。そんな私たちを先生は、「大勢の人たちを皆、ジャガイモだと思えば緊張しないよ。今までやってきたことを全部出し切って踊れば大丈夫。自信を持って。」と言って、勇気づけて下さいました。
おかげ様で私たちは、県大会で「闇」という作品で最優秀賞を得ることができました。踊り終えた時、自分自身満足というか、とても感動しました。
そして先生の「よかったよ。」という言葉と笑顔を今でも忘れられません。
部活を通して、ダンスというのは全員の気持ちが一つになってはじめて見ている人に訴えかけ、感動させるものだということが分かりました。
今、私はエアロビクスをしています。踊ることが好きだからです。そのダンスの楽しさを教えて下さったのは、阿部先生だと思っています。先生に教わったことが、今でもいろいろな面で役立っているような気がしております。ご指導して頂いたこと、心から感謝しております。
広沢中学校の益々のご発展と皆様方のご多幸をお祈り申し上げます。
最高の夏休み
平成2年度卒業 岡田 弘之
今から7年も前のことですが、僕は、中学校生活最後の夏休みに、生涯忘れないであろう思い出を作ることができました。
その夏、僕達野球部は徳島県で開催された、全国大会という夢のような舞台でプレーすることができました。
それは、周囲の誰もが、そして、プレーする自分達ですら、予想だにしなかった出来事でした。
確かに練習中に、「合い言葉は徳島」などと冗談で言っていましたが、まさか本当のことになるなんて思ってもみませんでした。まして、当時のチームは、地区大会ですら優勝したこともなく、決して強いといえるチームではありませんでした。それがふたを開けてみると、あれよあれよという間に勝ち進んで、全国大会へ出場。まるで、目に見えない力が自分達に乗り移ったかのようでした。
今思えば、「大変なことをしてしまったんだなあ」と思いますが、当時の自分は、どこか他人事のように思えていた気がします。それはおそらく、関東、或いは全国大会へ出られるという意識よりも、みんなとまだ野球がしたいという気持ちが強かったからだと思います。
ですから、試合に負けたときは、悔しさよりも淋しさで胸がいっぱいになったのを覚えています。
あれから7年。考えてみると、野球で始まり、野球で終わった、そんな感じがした夏休みでした。そして、中学最後の夏休みに、好きな野球で、仲間と共に目いっぱい遊べたことを嬉しく、そして幸せに思います。
最後に、当時の自分達を陰で支えてくれた多くの方々に感謝したいと思います。
ありがとうございました。
やさしさいっぱい
平成2年度卒業 米山 久子
私は今、「平成園」という有料老人ホームに勤めています。高校を卒業するとき、進路は福祉関係へと迷わず決めました。お年寄りの方に最後の楽しい場所として、よりよくすごしていただきたいと思って仕事をしています。お年寄りの明るい笑顔を目にすると自分のやりがいを感じます。
この仕事に就くきっかけは中学校の2年、3年の時、養護学校の友達との交流にあったと思います。体の不自由な友だちと初めて出会った時は、「どう接すればいいか」と迷いました。ゲームをしたり、絵を描いたりする中で親しさが増しました。私の膝を枕にして寝ころんで遊んだり、他の友だちのところへは行かず私にだけ心を開いてくれている小さな男の子がいました。養護学校の先生から、「甘やかさないでね。」と言われました。「同情することはいけないのか」と疑問に持ち、私たちは真剣に話し合いました。「かわいそう」の中には同じ立場ではないものがあることを発見しました。何も気付かないでいた言葉や行動を考え直しました。
今、学校では「いじめ」などがあると聞いていますが、その当時の広沢中は温かいいたわりがありました。登校拒否の友だちをみんなで迎えに行ったり、気持ちが沈んでいる子を励ましたりしました。先生とも何でも話せました。交流をする中でみんながやさしくなってきたのだと思います。中学校時代の友だちと話すと、この時の思い出が話題になります。私はこの交流の中で、自分を見つけました。ソフト部員としてバリバリやっていた私、家では甘えん坊でいつも何かをしてもらっていた私。今までの場面ではない私が見えました。「相手の気持ちになって考えるやさしさ」養護学校の友達に見つけてもらったものです。今つくづくそう思います。
養護学校の友だちと先生、広沢中の私たちと先生。みんな一つになって交流しました。体が不自由、言葉が言えないなどのハンディはいつしか消えて、同じ友だちとして、良さを分け合いました。
一番多感なとき、相手を思うことを学びました。それがいつしか私の生涯の仕事へのきっかけとなりました。
人との出会いは不思議です。私は今、この職場の中に「やさしさいっぱい」を伝えています。養護学校の友だちは今どんな生活をしているのかわかりませんが、私は感謝をもって思い出の頃を大事にしています。